比較は何も生み出さない
不幸の多くは、比較の中から生まれる。わたしは、そんなふうに考えている。特に他者との比較ほど、不毛で無意味なものはない。人間とは、どうあがいても自分の人生しか歩めないのである。生まれから生き様まで、そのすべてがまるで異なる他人と自分を比べて羨んだり、あるいは反対に一人悦にいったりしても、何の意味もないのである。
だが、時には現状を嘆き、他人を羨んでしまうのが人間である。ことに、ああ、わたしもあんなふうに生きてみたかったというような人生を、大手を振って歩いているような人を見ると、こころがちくちくと痛んでくるのが人間である。これは、誰もが感じることだろう。だが、前述したように、そこで自分と比べてみたところで、何の意味もない。そんなことをしたところで、現状はまったく改善しないからである。
では、そのような時に、わたしたちはどうすればいいのか。理想の生き方をしている、まぶしすぎるほどの日のあたる道を気持ち良さそうに歩んでいるかの人を目にした時に、いったいどんなことを考え、何をなせばいいのか。
今の自分に何が出来るのかを見つめなおす
それは、いまの自分が、いったいどのような資産を持っているのかを洗い出すことである。もちろんここでいう資産とは、お金だけではない。自分が持っている知識や経験など、自分の総体をリストアップしていくのである。要するに、自分がもっている、アウトプットをすることが出来て、新しい価値に転換できる物がどれだけあるのかを見つめなおすのである。そうすることで、わたしたちは視線を過去や他者から、現在の自分へと戻すことが出来る。
つまり、これから理想に近づいていく際に必要なものを、現在の自分はどれだけ持っているのかを、確認するのである。そこでもし必要なものが意外と揃っていたのならば御の字であるが、思いのほか不足していたら、今までの道のりを反省して、自分の理想の姿をぐっと見据えて、頑張っていけばいいだけの話である。
わたしたちが生きている時は、つねに「今」でしかない
当たり前だが、わたしたちが生きる人生とは、つねに今という時間でしかない。その無数の今の積み重ねが過去であり、来るべきそれが未来なのである。そう、自分に不満があるのならば、この今という時間のなかでどうにかしなければ、何も変わらないのである。
自分と他人を比較することは、もうやめにしようではないか。不必要に思いわずらうことなく、今を生きていこう。幸せをつかむためには、それしかないのである。
羨ましく思ってしまう人もまた、悩んでいるかもしれない
最後に、思わず羨んでしまう人生を歩いている人について思うところを述べて、この文章を結びたい。もっとも、羨ましく見える人生もまた、他人が見てそのように思うだけであって、当の本人にしてみたら案外あっぷあっぷの毎日だったりすることもまた、ままあるものである。
優雅に見える人ほど他人が見ていないところで努力をしたり、あるいは苦労を重ねていたりするものである。わたしたちは他人に対してはどうしても表面的なところ、それも華やかな面ばかりに注目してしまいがちであるが、ひとにはそれぞれの人生があり、誰にもいえないことで思い悩んだり、ひとり胸を痛めたりしているものなのだ。そう考えると、いかに人と自分を比較することが愚かしいことであるかが、改めてよくわかるだろう。