いつの時代も、社会は若者を未知なるものとして捉える。世の大人たちは、かつては自分たちもそう呼ばれる存在であったのに、まったく別の生き物を見るような目で眺め、接するのである。
しかしたがだが数十年のタイムスパンでは、人類という種それ自体が進化をするということは、当然ながら起こりえない。当たり前だが、人間の本質は、そう簡単には変わらないのだ。いまの若者も、わたしたちがかつて思ったようなことで思い悩み、また喜びを見出して暮らしているのである。
だが、それでも若者たちを異星人のように思ってしまいがちなのは、彼らの生活を支えるテクノロジーが、わたしたちが若者だったときに存在しなかった点にあるのではないか。本書を読んで、わたしはそんなことを思った。
スマホに依存し、中毒ともいえる生活をしている若者たち
現在の若者にあって、当時のわたしたちにはなかったものとして、スマートフォンを中心としたSNSでのコミュニケーションがある。本書では、これを軸に取り上げることで、現代の若者の姿を描き出し、さらにはそれをふまえたうえでビジネスを展開することを勧める。
まず本書の前提として知っておかなくてはならないことは、彼らにとってスマートフォンが大げさな言い方ではなく、その生活のすべてになっているという事実である。その一例として本書に挙げられているのは、ソーシャルメディアで自らの投稿写真が拡散されることを狙って何処かに出かけたり何かをやったりするという、本末転倒とも思える行為である。
では、何故そんなことをわざわざするのか。理由は簡単だ。楽しんでいる自分、いわゆるリア充な自分を演出するためである。だが、これがまわりくどくて面倒くさいのだが、彼らは投稿の際に直接的にその体験を自慢するというストレートなやり方はしない。そういうやり方はださいのである。そのかわりなされるのが間接自慢である。
リア充アピールをするための間接自慢の具体例
では、本書の例をひいて、間接自慢とは何かを説明してみよう。
車の助手席からの写真で、東京タワーが写っている。普通だったら、東京タワーに行ったことがその主たるメッセージであると見る側は判断するが、よくよく写真を見てみると、ハンドルのエンブレムに跳ね馬の絵が描いてある。要するに、フェラーリに乗って東京タワーに行ったことを自慢したいのである。
あるいは、こんなやり方もある。レストランからの投稿で、きれいに盛り付けられている料理が写っている。だが、これもそれが写真のメインではない。奥に、異性の体の一部がちらりと見えるのだ。これは、わたしはこんなに素敵なレストランにエスコートしてくれる、素敵な彼がいるんだよということを、アピールしたいのというのである。本書に掲載されている間接自慢の例の一事が万事、みなこの調子である。
若者たちが直接的なコミュニケーションを避けるようになったとはいつの時代でもいわれることだが、ここまでまわりに気を遣いながら間接的に自慢をするというコミュニケーションをしていたら、とても疲れてしまうのではないかと他人事ながら心配になってくる。
だが、そのような思いは、大人の勝手な思い込みなのかもしれない。
若者とは、その時代の最新テクノロジーと共に生きるものである
わたしたちが生きている現代は、10歳年が違えば、その青年時代を支えたメディアインフラが決定的に異なってくる。だが、その時々の時代の若者たちがその時代の新しいメディアを利用し、それにどっぷりと浸かりながら毎日を過ごしてきたという点は共通している。そう、各世代ごとに、最新のテクノロジーに支えられたいくつもの青春のスタイルがあったのである。
そのような視点に立てば、本書に挙げられている若者たちの姿は、特別おかしなものには見えなくなってくるのではないだろうか。大人の眉を顰めさせてこそ、若者なのである。それこそが、青春というものなのかもしれない。
本書は、この2010年代中盤における若者たちの生活スタイルの報告書となっている。ビジネスにいかすもよし、あるいは、ただ単に読んで、彼らの毎日を支えているテクノロジーや価値観に触れるだけでもいいだろう。写真も豊富で、間接自慢に立脚した彼らの日常がよくわかるつくりになっている。
ZIP!発!!若者トレンド事典 間接自慢する若者たち (角川書店単行本)
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