世の中のことを説明する際に、よく用いられるのが、二項対立の図式である。善と悪、戦争と平和、男と女、大人と子供など、物事をざっくりとふたつに割って、その違いを際だ出せて、比較する思考である。文系と理系という表現も、そのようなものであるといえる。
世の中は、文系のほうが圧倒的に多い。それは別に、文系を選択した皆が文章表現がたくみだったわけではなく、単に数学が出来なかったことによることを、わたしたちは知っている。そのような大多数の文系人間から、理系はどのように映っているのか。また、当の理系人間は、そのような視線を受けて、何を感じているのか。本書は、そのような視点で描かれている。
著者は、文系が従事するものは、広い意味で「交渉」であると述べている。社内で意見を通したり、あるいは営業をかける時も、必要なのは目の前の人間を納得させる言葉である。要するに、文系の仕事には、いつもひとが関わるのである。自分のちからだけではどうにもならない人間というものを相手に、日々格闘するのが、文系の仕事である。それに対して、理系のそれは、目の前の対象物がすべてである。この違いは大きい。
また、一般的に文系人間が従事する仕事は、営業やマーケティングといった、直接稼ぎに直結する仕事であり、理系のそれは、地道な商品開発が中心となっている。要するにお金を使う仕事である、という点を著者は指摘する。ここに、社内における火種があるという。自分たちの立っている場所、見ているものが異なるため、不毛な対立が起こるのである。
だが、言うまでもなく、販売も開発も、その両方があって、企業は存続が可能となる。著者は、まずこのお互いの立場の違いを認めることから始めるべきだと主張する。会社内の話に限らず、相手の立場を知らないで、こちらの視点から一方的に不当な非難を浴びせがちなのが、人間である。
現代の世界でメジャーとなっている学問の思惟形式の源流は、古代ギリシャにあるのだが、そこで哲学の父祖と呼ばれるような面々は、いまでいうところの、みな文理融合である。特にアリストテレスにいたっては、ひとりであらゆる学問の大本を作ってしまったようなものである。時代が下って、パスカルやデカルト、ライプニッツあたりまでは、そのような感じである。
では、なぜもともとはこのようにたったひとつのものだった学問が、文系と理系に分かれてしまったのだろうか。ゲーテは、わたしたちの時代はもう学問が細分化しすぎてしまって、ひとりで追いかけることは不可能になってしまったということを述べているが、そのような細分化にくわえ、今日の理系離れを生み出している状況は、やはり教育のあり方もあげられるだろう。
勉強全般にいえることだが、理解をして、実力をつけるためには、基礎を固めてから先にすすむことが絶対の条件であるが、理系科目は、特にそれが物をいう。一回わからなかったら、もうその後はちんぷんかんぷん、ということになってしまうのだ。現代の教室は、大人数を相手にしている授業であるから、そのようなことになるのである。興味をもたせ、わかるまでじっくり教え込めば、話は変わってくるだろう。
本書は理系をテーマにしているが、理系を見ることで、文系とは何かという点も浮かび上がってくる。組織には、さまざまな属性の人間がいるものである。それぞれのバックグラウンドを理解するうえでも、このような本は読んでおいて損はない。