本書をより正確にいいあらわすならば、「メディアを通してみた70年代オカルト史」といったほうが正しい。ひとつひとつのオカルト事象そのものを語るのではなく、それらをいかにメディアが伝えたか、そしていかに大衆に受け止められたか、著者はそのような視点で論を起こし、これらオカルト情報が世間を騒がせ、そして日本人のこころに影響を与えた事象を語っていく。
人々の不安を反映したオカルト情報
著者は、戦後日本のオカルトの発祥を1970年代に見る。70年代、テレビをはじめとするマスメディアによって、のちにオカルトという言葉で括られるようになる「この世ならざるもの」についての情報が、大量に流通するようになった。その背景としては、アメリカとソ連による核戦争が現実味をもっていたことやオイルショックによる高度経済成長の終了といった、先行きへの漠然とした不安があったのではないかと著者は分析する。UFOやノストラダムスの大予言、ネッシーやイエティといった未確認生物やムー大陸の伝説、さらには小松左京の『日本沈没』といった創作物にいたるまで、これらの情報は人々の心にフィットし、同時にさらなる不安をも掻きたてたのである。
マスメディアの力が絶対だった時代
本書を読んでいて思ったことは、インターネットが出現し、そのちからを増していく以前、具体的にいえば20世紀末までのあいだ、マスメディアがいかにちからをもっていたかである。特にテレビの影響は大きく、そこで映し出され、語られることはすべてだった。著者も述べているように、確かに20世紀のテレビ番組は、本当なのか嘘なのか、その境界が曖昧だった。メディアリタラシーなどといった面倒くさい概念はなく、受けてはただただそれを素直に受け取ったのである。
写真という言葉は真実を写すと書くが、映像は写真以上に現実味があり、真実そのもののようにうつる。2時間あまりの特番でこれでもかと見せられた摩訶不思議な映像群は、今から振り返ってみると何の脈略もないジャンクな情報の集積以外の何物でもないのだが、それは十分な説得力を持って迫ってきたのである。
オカルトが現実を侵食したオウム真理教事件
だが、話はこれだけでは終わらない。マスメディアによるオカルト情報は、ただのエンターテイメントでは、終わらなかったのである。ただ消費されることだけを目的として発信されたオカルト情報は、ある人々にとっては現実のものとして受け止められることにもなったのだ。特に幼少期にそれを繰り返し見聞きした世代にとっては、それらオカルト的価値観が無意識に刷り込まれてしまい、大なり小なり人生に影響を及ぼすようになってしまったのである。オカルト情報の送り手たちは、まさか多くの人々にこんなにも大きな影響を与えることになるとは、夢にも思いもよらなかったはずである。
ノストラダムスの大予言をはじめとするオカルト情報を真に受け、不安を感じた人々のなかには、現実生活よりもオカルト世界のほうに重きをおく例もあらわれた。一連のマスメディアによるオカルト情報の影響が最悪のかたちであらわれたのが、1995年のオウム真理教事件である。ジャンクが現実を、侵食してしまったのである。
人間とは、自らが信じたいものを信じるように出来ている。特に科学的証明や論理的説明が不可能なオカルト事象は、信じる・信じないがすべてである。これは、あらゆる信仰と同じである。信仰とは信念であり、個人の価値観そのものであって、生き方をあらわす。オカルトをめぐるさまざまな事象を考えることは、もしかしたら、人間存在そのものを考えることなのかもしれない。
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